はじめまして。じぃ~じと申します。
じぃ~じの日記の運営者です。
まずはごあいさつも兼ねまして
得意のスライドで自己紹介します。
酉年生まれの43歳(2024年3月現在)で、そこら辺に歩いている普通のおじさんではあります。
そんなじぃ~じにとってこれまで節目となった出来事をお伝えします。
新卒で進学塾に入社
みんなにうらやましがられる大学を卒業したにも関わらず、思考力ゼロだった私。
教育に興味はあったものの、高校時代の成績が思わしくなく教育学部の推薦を逃すという始末。
そのため、当時興味があったという理由だけで教育業界に就職することになりました。
特に当時は重労働低賃金が蔓延していた教育業界。
当時はワークライフバランスという言葉も存在しなかったたため、
「予習は休みを使ってやるもの」
「1時間の授業に3時間の準備をするのが当たり前」
という教えをそのまま実行していました。
6年目で校長に
まんまとやりがい搾取の罠にはまり、さらに社内の競争というあおりを受けた私。
そんな私は6年目になるころには
校長
に就任。
当時27歳という若い校長
というと聞こえはいいですが、残業代カットでいいように使われる中間管理職。
それでもやりがい搾取の罠にはまっておりましたが、さすがに過酷すぎる環境に心神喪失。
人生を棒に振るかのようにオーストラリアへワーホリへ旅立つことにしました。
30歳でワーホリへ
30歳は当時のワーキングホリデービザが取得できるギリギリの年齢。
そのため
ギリホリ
と称されておりました。
そんなギリホリで旅立ったこともあり、せっかくなら結果を残したいと考え
永住権の取得
を目指し、まずはIELTSのスコアを取得することを目指しました。
IELTS7.0を取得
もともと教える側の人間だった私。
どのような学習をしたら定着が図れるかということは熟知していました。
そのため、4か月通った語学学校では常に
優等生(日本人としては…これは良くも悪くも)
結果として7月の試験で
IELTS7.0
をたたき出すことが出来ました。
バナナファームに6か月
ところが皮肉なことに、その先に待っていたのは
バナナファーム
での季節労働。
これはセカンドビザ(ワーキングホリデービザの1年間の延長)取得のための必須条件。
農家であれば内容は何でもよかったのですが、エージェントに任せていたところ
最も過酷
と言われていたバナナファームが選択肢にあり、無駄にチャレンジ精神が旺盛だった当時はこちらを選択。
何が皮肉だったかと言うと、そのバナナファームで働くほとんどが
日本人や台湾人の季節労働者
かつ宿舎も同じなので当然話す会話は日本語。
IETLS7.0の輝きは一瞬でさびつき、もともと高くなかった英語力に対する自信も塵となってしまったのです。
ストリートミュージシャンになる
それでも、6か月の間には友情あり、恋愛あり、後に生活を救う出会いあり。
いい経験にはなったと思います。
中でも、ずっとやってみたかった
ギター
を始めることになりました。
これは「好きな子にアピールしよう」という中学生の初恋のような発想からでは決してありません。
そういう理由ではありませんが、とにかくド素人のためゼロからのスタート。
しかしながら謎の熱量&暇を持て余すファーム生活。
たっぷり練習する時間はあり、ギター初心者の鬼門であるFコードもギリギリ音が出せるくらいにはなりました。
そして、バナナファームから都市に移り一人で生活を開始しました。
仕事が安定せず無職で過ごす日々。
思い切ってギターを背負って
ストリートミュージシャン
(現地ではバスキングといいます)
にチャレンジ。
コツコツ取り組んだ結果
$2000(オーストラリアドル・約18万円)
を稼ぎ、そのお金で旅行することが出来ました。
TOEIC960&英検1級を取得
ワーキングホリデーというとどうしても遊んできた人と見られがち。
それも悔しかったのと、英語力を証明する資格を持って自分に箔をつけたかったこともあり、帰国後
TOEIC900以上&英検1級
を目指すことに。
1発での取得はなりませんでしたが、何度も心を降りそうになりながら、何とか取得することが出来ました。
35歳で私学の教員
帰国後は塾講師の経験と海外生活の経験を活かし教員になることを決意。
派遣社員をしながら通信制の大学で教職課程を履修。
公立は残念ながら不合格。
私立の女子校に採用され英語の教員として働き始めました。
担任という経験
結果的に5年で辞めることになってしまいましたが、それでも中1から中3まで同じクラスを連続して担任できたのは貴重な経験になりました。
勤めていた学校もその時までは伸び伸びと働けていました。
その時担任をしていた生徒も、今年(2024年)には20歳。
高校卒業からは年に1度、定例会として食事会をしています。
経営悪化による大量の退職者や、卒業式がコロナでなくなるなど、環境の変化がなければもしかしたら辞めることもなかったかもとは少し思います。
38歳、結婚相談所で奥様と出会う
今の奥様との出会いは結婚相談所。
2019年4月に出会い、同じ年の9月に入籍をするというスピード婚。
お互い目的があると行動力が増すタイプではあるので、ゴールするまでは良かったです。
一方、こだわりがある者同士が一緒に生活するという大変さにお互いかなり苦労しました。
特に結婚するまでの期間が短かった分、その反動でもありました。
4年が経過した今は当初よりもぶつかることは減ってきました。
結婚相談所で出会ったということもあり、奥様は現在、自分で結婚相談所を運営。
細々とですが成婚に結びついた会員さんもいらっしゃいます。
40歳で起業に失敗
一方、私立の女子校で環境の変化に伴い、だんだん働きにくくなってきました。
良くも悪くもここで学んだのは社内の政治的な立ち振る舞いが大事かということ。
退職を決意した私は何を血迷ったか、ここで転職ではなく
起業
という選択肢をとりました。
実はこのブログこそがその名残。
世の中には起業をして成功するタイプと、そうでないタイプがいるかと思います。
当然ながら私は後者で、わずか3か月で心を折る結果となりました。
教育関連の民間企業に再就職
とりあえず、自分には少なくとも現段階では起業は無理と判断し、そこからの転職活動がスタート。
当時2021年7月。
コロナの真っ只中で、一番就職活動をしてはいけないタイミングでした。
また、私立の学校を退職、起業も挫折、という経緯から自信喪失状態。
唯一のうまみは、東京オリンピックと甲子園をほぼフルで観戦できたことでした。
色々ありましたが、何とか納得のいく教育関連の民間企業に就職。
それが2021年9月の出来事。
それから2年と半年。
まだしっかり働いております。
43歳でブログを再開
さてさて、ここまでじぃ~じの経歴を掘り下げてお伝えしました。
今回、ほぼほぼ眠らせてしまっていたこのブログを
「じぃ~じの日記」
として再開した理由はひとえに
リベ大両学長の「りっつんブログ」のエピソードに刺激を受けた
に他ならないのですが…、何より
「こんな数奇な人生を送り、挫折を繰り返してきた私の経験が誰かの役に立つこともあるかも知れない。」
という思いがあったからです。
これまでの英語の記事も残していいものは残しつつ、整理整頓していきたいと思います。
アメブロから飛んできてくれた方も、是非、こちらのブログでじぃ~じを見守っていただけますと幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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